源頼朝と茅ヶ崎ゆかりの地
源頼朝が鎌倉幕府を立ち上げるころ、茅ヶ崎市域は大庭一族が支配していました。
中でも大庭景能は頼朝の重臣の一人として、茅ヶ崎にゆかりの深い武士です。
頼朝や景能を中心に、この地で活躍した人物やゆかりの地を紹介します。
マップや動画を見ながら、頼朝の生きた時代に思いをはせてみませんか。
茅ヶ崎ゆかりの人物
▼人物をクリックしてください。
鎌倉幕府初代将軍
源頼朝(1147~1199年)
平治の乱後、伊豆に配流されますが、以仁王の平氏討伐の令旨を受けて挙兵。
東国武士の来援を得て関東を制し、鎌倉には入って根拠地としました。
また義経追討を口実として、全国に守護・地頭を設置し、武家政治の基礎を確立。
1192年、征夷大将軍に任じられました。
戦の天才
源義経(1159~1189年)
頼朝の異母弟。平治の乱後、鞍馬寺に預けられ、さらに奥州の藤原秀衡のもとに身を寄せます。
そして兄・頼朝の挙兵に応じて源義仲を討ち、平氏滅亡に活躍しました。
しかしその後、頼朝と対立してしまい、再び秀衡を頼りますが、秀衡の死後、息子・泰衡に襲われ、衣川の館で敗死しました。
懐嶋在地の武士
大庭景能(1138?~1210年)
頼朝の重臣で、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に登場する大庭景親の兄にあたります。
鎌倉の頼朝の新邸や鶴岡八幡宮の造営など、幕府の基盤づくりに奔走しました。
妻は北条政子の妹
稲毛重成(?~1205年)
頼朝挙兵時には平家側で敵対していましたが、のちに頼朝に帰伏し御家人となります。
北条義時の父・時政とともに畠山氏討滅の片棒を担がされたうえ、この策謀の中心人物と汚名を着せられて殺されました。
協力:ねこ画伯コハクちゃん
茅ヶ崎ゆかりの地
鶴嶺八幡宮・弁慶塚
京都の石清水八幡宮を勧請したのが始まり。その後頼朝の命により、大庭景能が社殿を修復し復興しました。社殿前の大イチョウや大鳥居から続く松並木も見どころの1つです。
また弁慶塚は源義経の家来・弁慶の霊を供養したと伝えらえています。
- 住所:茅ヶ崎市浜之郷462
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旧相模川橋脚
関東大震災によって、姿を現した大きな柱。
頼朝の家臣・稲毛重成が亡き妻の供養のため、相模川に架けた橋の橋脚であると考えられています。
その橋の落慶供養に参列した頼朝は、帰り道、弟・義経等の亡霊が現れて落馬。それが原因で翌年亡くなったと伝えられています。
- 住所:茅ヶ崎市下町屋1-551-2
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旧跡懐嶋山の碑(えな塚)
地元に伝わる伝説として、頼朝の側室・丹後局は頼朝の子を身ごもったことを妻・北条政子に知られてしまいます。兄・比企能員は懐嶋の領主・大庭景能に局を匿うようお願いし、桜屋敷(現在の西久保)で無事男の子を出産。
えな(胎盤)をここに埋めたことから「えな塚」と呼ばれています。
- 住所:茅ヶ崎市西久保
(新湘南バイパスと相模縦貫道の分岐点下) - 動画はこちら
御霊神社
大庭景能が鎌倉権五郎景正の霊を祀ったことが始まり。また頼朝の弟・義経の怨霊を供養するため、御霊神社に霊を合祀したと伝えらえています。
武運長久である2つの御霊が祀られていることから、合格祈願や願掛けに縁起が良いと、多くの人々が参拝に訪れます。
- 住所:茅ヶ崎市南湖2-9-10
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神明大神宮
鎌倉権五郎景正は相模川から今の藤沢市一帯を開墾し、伊勢神宮に寄進した土地は大庭御厨と呼ばれました。
領主となった大庭景能は、自身の館の鬼門に伊勢神宮を勧請し神明大神宮を建立。現在は社殿の裏に、懐嶋館址の碑と景能の石像が建てられ供養されています。
- 住所:茅ヶ崎市円蔵2282
- 動画はこちら
茅ヶ崎ゆかりの地マップ
源頼朝や大庭景能などにゆかりのある場所や関連する人物の相関図、周辺のグルメ情報もご紹介。
グルメを楽しみながら市内を散策することで、茅ヶ崎の新たな魅力を発見できる内容です。
茅ヶ崎市観光案内所・茅ヶ崎市観光協会・茅ヶ崎市産業振興課などで配布しております。
- 「茅ヶ崎ゆかりの地マップ」のダウンロードはこちら(PDFファイル/10.4MB)
*A4サイズで印刷、右折りにしてご覧ください