速水 御舟(はやみぎょしゅう)
日本画家 作品炎舞と銘樹散椿は国の重要文化財
1894(明治27年)
~1935(昭和10年)
南湖の小山敬三の自宅の東側には、日本画家速水御舟の別荘があった。茅ヶ崎ではほとんど見られなくなった貴重な松林の中に速水御舟のアトリエが東京恵比寿から移築された。ここに住む孫の速水夏彦氏(陶芸家)によって保存されている。速水御舟が親しんだ昔ながらの静かな茅ヶ崎の風景に出会うことができる。
東京浅草に生まれ、腸チフスに より東京で死去。
1916(大正5年)、22歳の時、実姉の 療養先であった茅ヶ崎を訪れた。その後、死去するまで別荘にたびたび訪れて、海岸風景などのスケッチも残している。 長年の友人で援助者であった吉田幸三郎の妹、弥(いよ)と結婚。目黒の吉田家本邸の門前に住んだ。
長女の弥生の思い出に「朝鮮のお土産の民族衣装を、私たちに着て銀座を歩いてくれたらどんなご褒美でもあげる」と父が言い、「私たちが銀座では恥ずかしいからせめて茅ヶ崎の海岸にして欲しいと言って、父といっしょに海岸を歩いたらとても喜んでくれた」とある。
次女和子は美術評論家吉田 耕三(よしだ こうぞう、1915年)と結婚した。吉田は御舟から日本画を学び、御舟の日本画の鑑定人を務めた。陶芸の公募展・日本陶芸展創設を企画し、北大路魯山人の弟子でもあった。和子は茅ヶ崎に住んでいた。
実業家で、美術家のパトロンとしても知られる原富太郎(三渓)の援助を受けたことも茅ヶ崎の縁に繋がっている。氷室椿庭園の旧持ち主でいとこでもある氷室花子をモデルに描いたと言われる作品「花の傍」(茅ヶ崎美術館蔵)も有名である。
昭和期の 美術品として第一号となる国の重要文化財に指定された「銘樹散椿(めいじゅちりつばき)」や「炎舞(えんぶ)」(共に山種美術館蔵)は特に有名である。
速水御舟が亡くなる1年前の1934(昭和9年)、 茅ヶ崎で詠んだ短歌「茅ヶ崎の渚によする夜光虫 手にすくいなば 消えてはかなし」
現存する作品は600点ほどといわれている。うち、120点は山種美術館が所蔵。
関連人物
- 小山敬三
- 氷室花子(作品「花の傍」のモデル)
- 原三渓