開高 健(かいこうたけし)
小説家 芥川賞選考委員 ”花わらい鳥うたい人は酔う”
1930(昭和5年)
~1989(平成元年)
開高健は壽屋(現サントリー)宣伝部と、死地から生還と言われたベトナム戦争従軍体験という二つの大きな人生の節目を経験した。純文学やノンフィクション作家、そして後半の釣り紀行等により、数々の名著名言を残し、大きな評価を得ている。
1930(昭和5年)大阪生まれ、第二次世界大戦の最中に入学していた旧制中学校は、兵営に代用され、余儀なく授業は停止状態となった。
1948(昭和23年)4月に旧制大阪高等学校文科に入学するも、学制改革により大阪市立大学法学部を受験することとなり、6月に入学、文芸部に入部した。1950(昭和25年)に同人誌「えんぴつ」に加入した事が、後に婚姻関係を結んだ牧羊子と出会うこととなる。牧羊子は壽屋(現サントリー)に勤務していた。長女道子の誕生と子育てを機に牧羊子は壽屋を退社、入れ替わるようにして開高健が壽屋(現サントリー)の宣伝部に入社することとなる。1956(昭和31年)開高健26才の時に、サントリーPR誌「洋酒天国」を創刊、第22号まで編集長をつとめた。表記のキャッチコピーの他、数々の名キャッチコピーを生み出した。
”「人間」らしくやりたいナ トリスを飲んで「人間」らしくやりたいナ 「人間」なんだからな”
1963年(昭和38年)33才でサントリーを退職、次の転機が訪れることになる。
東京オリンピックが開催され、日本としては絶頂期の1964(昭和39年)11月に朝日新聞臨時特派員としてベトナム戦争取材のため、3ケ月にわたる従軍体験をしたが、本人も予想もしていなかった壮絶な体験となった。その体験記は世に名高い「ヴェトナム戦記」である。「200名の政府軍の大隊はジャングルの陰にひしめく『姿なき狙撃者』たちの突然の銃撃で散り散りばらばらになり、気がつくと17人になっていた。マシンガンとライフル銃と、カービン銃の音が森の中に響きわたった。」「ドドドドッというすさまじい連発音にまじって、ピシッ、パチッ、チュンッ!・・・という単発音が響いた。」「鉄兜をおさえ、右に左に枯葉の上をころげまわった。短い、乾いた無数の弾音が肉薄してきた。」。同行のカメラマン秋元啓一氏は「もうダメかと思った」と述懐している。
1978年(昭和53年)芥川賞選考委員となる。
1974年(昭和49年)44歳の時に茅ヶ崎市東海岸南に書斎を構え、1989年(平成元年)58歳に没するまで海岸に至近距離のこの場所での生活を楽しんだ。
後年、親族により茅ヶ崎市に寄贈され、開高健記念館として一般公開している。
主な作品と受賞歴
「裸の大様」第38回芥川賞 「輝ける闇」毎日出版文化賞
「玉砕ける」第6回川端康成賞
「一連のルポタージュ作品」第29回菊池寛賞 「闇の物語」日本文学大賞
「オーパ」 絶筆は「珠玉」
関連人物など
- 牧羊子・開高道子・井伏鱒二・佐治敬三他多数
- 開高健記念会
- 集英社 開高健ノンフィクション賞