七堂伽藍跡(しちどうがらんあと)
高座郡衙(たかくらぐんが)(当時の役所)に附随する大きな寺院跡
7~9世紀
国指定史跡
下寺尾官衙遺跡群
(しもてらおかんがいせき)
古代の茅ヶ崎の中心地は、現在の市域の北部である下寺尾の周辺にあった。それは、茅ヶ崎というよりはもっと広域の高座郡(たかくらぐん)の中心であった。現在の綾瀬、海老名、相模原、座間、茅ヶ崎、藤沢あたりを言う相模国8郡の内の一つの領地(天領)が高座郡であった。
地元では古くから古代寺院があると伝承されて来た。1957(昭和32年)に「七堂伽藍跡」碑が建立され、1978(昭和53年)の第一次発掘調査によってその存在が確認された。2000(平成12年)~2010(平成22年)に更に調査がなされ、伽藍の大きさ、主要建物、年代などが明らかになった。創建期は7世紀末(飛鳥時代後期)で、9世紀後半(奈良時代)に廃絶となったが、その後、平安時代には仏堂が建てられていたと考えられている。
七堂伽藍とは、金堂・講堂・塔・鐘楼・経蔵・僧房・食堂(じきどう)などを備えた大きな寺のことを言うが、本遺跡では本尊をまつる金堂と仏教思想を広めるための講堂があったと考えられる大型の堀立柱建物跡や大量の瓦などが発掘されており、瓦葺の大寺院であったことが確認されている。仏教に関連する銅匙(どうさじ)や二彩陶器等も多数出土している。
小出川を望む標高13mの相模原台地頂部に位置する相模国高座郡衙と考えられる下寺尾官衙遺跡と台地の南裾に位置する七堂伽藍跡や舟着場・祭祀場の跡も検出され、全国でも希少な古代遺跡群であり、地方官衙(役所)の構造を知る上で重要な遺跡群であり、2016年に国指定遺跡に指定された。
7世紀~9世紀の日本 日本の仏教は6世紀に中国から伝来した。聖徳太子(592~710)が仏教を儒教とならんで政治の基本精神とした。大化の改新(646)などを経て、天皇を中心とする律令制国家となって行く。このあたりの時代は飛鳥時代(592~710)で、都は奈良県明日香村であった。都を平城京としたのが奈良時代(710~794)で、国家を鎮護する目的で全国に多くの寺院が建てられた。奈良東大寺の大仏はこの頃のことである。国の安寧と平和を願って全国に国分寺を建立した時と重なる。この後は京都に都を置いた平安時代(794~1192)となって行く。天皇を中心とする律令政府が各地に造営させた大きな寺は、律令制を進展させ、権威付ける大きな役割をした。僧侶や寺院は国家の安泰を祈祷することが目的であった守護神でもあった。