国木田 独歩(くにきだどっぽ)
明治の文豪
1871(明治4年)
~1908(明治41年)
千葉県銚子生まれ。
父国木田専八は旧龍野藩(現兵庫県たつの市)の藩士で、榎本武揚(たけあき)ひきいる旧幕府軍討伐後に千葉県銚子沖で船が難破し、吉野家という旅籠でしばらく療養していた。
そこで奉公していた「まん」という女性と知り合い、独歩が生まれた。兵庫県たつの市は独歩の父の故郷であり、茅ヶ崎市民が愛してやまない山田耕筰作曲、童謡赤とんぼを作詞した三木露風の故郷である。
少年期は広島、山口ですごした。山口中学校へ入学したが、1887(明治20年)学制改革のために退学して上京。翌年に東京専門学校(現早稲田大学)英語普通科に入学。吉田松陰や明治維新に強い興味を持ち、学生運動にも加わる。徳富蘇峰と知り合い、大いに影響を受けた。その後徳富蘇峰の「国民新聞」の記者となり、日清戦争に海軍従軍記者として参加し、本名国木田哲夫の名で一躍有名になった。婦人画報の創刊者、編集者でもある。
1895(明治28年)独歩は熱烈に恋した信子と徳富蘇峰の媒酌で結婚し、逗子で二人の生活を営んだが、余りの貧乏なるがゆえに、やがて信子が失踪し、強い衝撃を受けた。このエピソードは有島武郎の「或る女」のモデルとして小説になっている。
1906(明治39年)自ら出版社「独歩社」を創立したが、1907年に破産。独歩はこの年に肺結核にかかり、茅ヶ崎の結核療養所「南湖院」で療養生活を送る。入院中「竹の木戸」「窮死」「節操」などを発表。1908(明治41年)6月23日に満36歳の生涯を閉じた。絶筆は「二老人」。独歩の一生を一文字で表すなら「窮」であると田山花袋は弔辞で述べている。
主な作品
武蔵野 忘れえぬ人々 牛肉と馬鈴薯 日の出 湯ヶ島より
富岡先生 春の鳥 竹の木戸
「日の出」のあらすじ
絶望の底に沈んでいた一人の若者が磯部にうずくまって今にも海に飛び込みそうだった。老人はそれに気付き、そっと若者に近づき、「日が今昇るのを見なさい、何と神々しい景色ではないか。お日様は毎日出る。人は毎日働け、そうすれば毎晩安らかに眠られる。そうすればその翌日は又新しい日の出をおがむことができる。」と語りかけた。若者はその老人に勇気づけられ、その後大成功を納め、老人の故郷に老人の名を冠した小学校を寄贈するに至った。荒波を蹴り上げて昇る真紅の大きな輝く太陽の力強いエネルギーに誰しもが感動し、勇む心を感じる事でしょう。