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まち・ひと・茅ヶ崎の煌き

川上 音二郎(かわかみおとじろう)

近代演劇の創始者

川上音二郎
1864(文久4年)
~1911(明治44年)

明治期の俳優川上音二郎の奇想天外の生涯は短くとも通常の人間の何倍分にもあたるだろう。近代日本を創成したのは維新の元勲たちだけではない。社会の底辺に登場した若者たちが果敢に新分野を開拓した。博多の一商人の倅音二郎も近代演劇という前人未踏の土地へ歩み出した。

1902年、欧州公演から帰国直後、現在の高砂緑地に住んだが別荘ではなく本宅で以後「相州茅ヶ崎川上音二郎」を名乗り全国で興行した。茅ヶ崎を選んだのは九代目市川團十郎別荘「孤松庵」の隣人となるためだった。線路脇に櫓を組み村民のために『ヴェニスの商人』を公演したり、團十郎の葬儀の際には弔問客のために道普請をするなど茅ヶ崎村のために尽力した。ここに永住するつもりであったのだろう。土地を購入し演劇学校を創立する予定もあったが夢はかなわなかった。

音二郎といえば誰もが思い浮かべるオッペケペー節であるが、これは活動初期に寄席演芸として流行らせたもの。実はある時期から本人はこれを封印している。音二郎=オッペケペーのイメージを泉下の音二郎は面白くなく思っているかもしれない。その理由は彼の欧米体験にあった。旅芸人のように興行を続けようやく認められた音二郎であったが彼地の演劇界を見聞し俳優の社会的身分の違いに驚いた。欧米では俳優が一流の文化人として遇され没後は記念館や銅像も建てられる。ぜひとも旧弊な芝居と訣別し劇場を近代化しなければと決心して以来、鳴物、舞踊入の演目はやめ、純粋に台詞による演劇上演のため努力を惜しまなかった。

音二郎が死んだ時、高名な評論家は彼を評し不真面目そうに見えて実は真面目な人間だったといった。自由民権運動に身を投じ、自身によれば百回を超える逮捕歴があり死ぬまで喧嘩沙汰が絶えなかったが実は至って真面目、旧弊な劇場体制を改革しようと古い利権を貪る人種とぶつかることが多かったのだ。日本に真の近代演劇(正劇)を根付かせようという高い志を抱いた風雲児の真面目はここにある。突飛な行動はペテン師、ホラ吹きと誤解され敵を作ったがそんな男を応援したのが意外にも伊藤博文だ。権威に楯突き遠慮なく諷刺する若き音二郎を伊藤は認め交遊し茅ヶ崎邸に「萬松園」の名を贈った。

萬松園時代で重要なのはシェークスピア『オセロ』本邦初演の準備を始めたことだろう。誰にも理解出来るよう英国の古典を同時代の日本になぞらえ大胆に改変したが賛否両論となった。この舞台に妻貞奴が出演し日本最初の舞台女優が誕生したことでも知られる。
音二郎の孤軍奮闘を支えた同志、貞奴のことも忘れてはなるまい。茅ヶ崎は短いながら二人で暮らした場所だ。その後音二郎は無理を重ね大阪に念願の劇場を建設したものの病に倒れる。貞奴は危篤に陥った夫を病院から劇場に運び音二郎は自分で作った舞台の上で波瀾万丈の生涯を閉じた。夫の理想を誰より知る貞奴の機転だろう。

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