歌川 広重(うたがわひろしげ)
茅ヶ崎市南湖「東海道の左富士」を描いた東海道五十三次の浮世絵師
1797年(寛政9年)
~1858年(安政5年)
東海道五十三次を発表した江戸時代の浮世絵師である。
本名を安藤重右衛門といい、江戸の浮世絵最大勢力・歌川派の門人となり、歌川広重と号した。ゴッホやモネ等の画家に、のちに多大な影響を与え、世界的に著名な画家となる。ヨーロッパやアメリカでは、大胆な構図等とともに藍色の美しさで評価を得、ヒロシゲブルーとも呼ばれている。
1797(寛政9年)に、江戸八代洲河岸(八重洲河岸)の定火消同心(じょうびけしどうしん)の安藤家の長男として生を受ける。13歳で家督を継ぎ、27歳で同心を退職するまで画業と役職の両立を果たしていた。38歳の時、幕府の八朔の御馬進献(はさくのおうましんげん)※の儀式図調整のため、その行列に参加して上洛、東海道を往復した際にその印象を写生、翌年シリーズとして発表する「東海道五十三次」で大人気を得る。この五十三次の中で、茅ヶ崎南湖鳥井戸橋の左富士を描いた。
左富士とは、江戸から京への下りの東海道でまれにしかない、進行方向左手に富士山が見えることをいう。茶屋町を過ぎた鶴嶺八幡社の赤い鳥居の付近に鳥井戸橋があり、ここが広重の描いた左富士である。一説には、橋の手前に左富士が展開することが左富士の条件ともいわれ、ここの他には静岡県富士市の二か所しか左富士は見られないと言われている。
その昔、南湖松原と呼ばれるほど海は今より内陸側にあり、このあたりは深く入り込んだ入江になっていて、大変美しい景勝地となっていた。まれに見える左側の富士をあおぎ、茶屋で休憩する旅人たちの一服が目に見えるようである。五十三次の中にしたためられた茅ヶ崎の左富士に多くの旅人の安らぎが込められていたであろう。
広重は六十歳で制作を開始した「名所江戸百景」を完成させた後、62歳で当時大流行のコレラで永眠したといわれている。
※幕府の八朔の御馬進献(はさくのおうましんげん)の儀式図調整
江戸の幕府が京の朝廷に御馬を献上することを重要な儀式としていた。八朔とは8月1日のことを言う。広重はこれに同行し、この儀式の模様を細かく図写するよう幕府から命を受けた。